先日,研究所の方針発表会がありました.

諸所長方はちゃんと資料の準備をしてなかった様で,言いたいことが分かりにくく聞いていて退屈でした. 

 ただ,とあるメッセージが繰り返し述べられていたことに気づきました.

それは「自分事として捕らえよ!」ということです.

 

「自分事として捉えよ(とらまえよ)!」というのは新卒で入社した会社でも言われていたことでした.

(余談ですが,関西の一部の地域では捉えるという”とらまえる”と言うそうです)

自分事として捉える...今一度振り返ると,自分は出来ていない気がします.

そもそも,「自分事として捉えよ!」と言われて,「分かりました!」とは言えないと思います.というか,心の有り様を変えるのは難しいです.

かといって「自分のこととして考えるのは難しくね?」という問題を看過するわけには行かないと思います.

新卒の会社で「自分のこととして考えたほうが仕事は面白いと思えるし,成長できるよ」と言っていたし,なんとなくそう思うからです.

 

という事で,この記事では何故「自分事」として考えられないか?どうしたら「自分事」として考えられるか?を深掘りしてみたいと思います.

 

「自分事」として考えられない理由

思いつく限りでは次の事があると思います.

誰かが何とかしてくれると思う

とにかく仕事が難しすぎて自分ではどうにも出来ない時に,その様に思いがちです.

自分がやるより,得意な人がやったほうが早いんじゃね?と思った瞬間から自分事ではなくなります.

もしくはやらなくても別に何も起きない仕事などもそうでしょう.

自分が何とかしなくても世の中は回ります.多くのことはそうでしょうね.

別に自分事として捉えなくても,世の中の人が何とかしてくれます.

 

見返りが無い

得るものがない仕事は当然自分事とは考えられない気がします.

単調すぎて自分の糧にもならないような仕事や,賃金の足しにもならない仕事などは真面目に取り組むのが馬鹿馬鹿しいと思います.

言われたことだけをやれば済んでしまうので,いちいち自分事として考えるエネルギーを割きたくない訳です.

 

納得感がない,というかそもそも何がしたいのか分からない

上司から「こういうことをやってくれ」と説明を受けますが,何を言っているのか良く分からないときがあります.

そんな時には当然聞き返しますが,それでも分からないことがある場合もあります.

3~4回聞き返すと,上司によっては「この物分りの悪い奴め!」と言わんばかりの表情を浮かべて場の雰囲気が悪くなる時があります.

そうなったときは,分かったふりをしつつ,渋々引き受ける時があることが私にはあります.

改めて思うとこういうのってコミュ障な気がします.

衝突するのが嫌だ,揉めるのが面倒くさい,馬鹿だと思われたくない,など様々な理由で納得感を犠牲にしてしまいがちです.

こういうのは毒ですね.

 

「自分事」として考えるためのアイディア

教わった方法も含めてこんな方法論があるでしょう.

リーダをやってみる

リーダの責務とは「チームのすべてのことを何とかする」ということだと思います.

誰かが何とかしてくれる訳ですが,その何とかしてくれる誰かとやらがリーダです.

リーダならば自分でなんとかするしか無いわけです.

 

主語を自分にする

たとえ誰かに何かを頼まれたとしても,主語を「自分」にしてみます.

ただ心の中でそう思うだけではなく,誰かに説明するときにも「自分」を主語にします.

そうすると自ずと自分事のように思えてきます.

 

これは前職で教えられたことで,一応私も実践しています.

ちょうど同じような事を言っているツイートを発見しました.

 

自分が一番偉いと思いこむ

自分が世の中で一番偉いと思い込みます.もちろん良い意味でです.

「自分が一番偉いから頑張らなくてもいいやぁ」なんて思ったら本末転倒です.

もし自分が一番偉いならば,他の誰かに期待しなくても当然すべてのことを自分で何とかできてしまいます.

出来ないならば自分の尊厳に傷が付きます.

 

見返り(リワード)を見つける,もしくはでっち上げる

お腹がいっぱいでも一欠片のチョコレートが食べられるように,トイレに行きたくなくても検尿が必要ならば出せるように,どんな仕事にも無理やり成長要素を見つけることが出来ると思います.

書類業務なら字が上手になるとか,試作品の運搬ならば筋力が鍛えられるとか.(余り良い例じゃないですねぇ・・)

もしくはゲーミフィケーションを取り入れても良いかもしれません.

 

おわりに

方針発表会の時にどこかのベンチャー企業の社長の方も仰っていましたが,多くの人は自分事のように考えられていないと思います.もちろん自分も含めて.

「自分事と考える」というのは精神論では難しく,言われたから出来ることではないと思います.

自分事として考えられない人が自分事として考えるためには何かしらの暗示やテクニックが必要だと思います.

どういう暗示やテクニックを用いるかはその人次第です.私ならば先に述べたようなアイディアを駆使します.

今度そういう本があったら読んでみたいと思います.

 

ではそんな感じで.