がり勉は良くないという動画を見ました。以前からなんとなくそうだろうなと思っていましたが、ちょっと思い立ったので文章にしてみます。

 

私はもともと勉強がそんなに好きではありませんでした。椅子に座って授業を聞いても右から左だし、受験勉強もあんまり成果が出ませんでした。むしろ勉強が嫌いです。

 

そんな私でも、勉強が楽しいと思うようになったのは大学生の卒論あたりからでしょうか。自分の勉強したことが研究に反映されるので楽しいと思いました。また、今まで知らなかったことを知るのは楽しいと思うようになりました。自分が見知ったことがどのように使われるか分かると楽しいものです。ある分野を深く学ぶと、ものの見方が変わります。

修士課程や博士課程に行ったり、社会人になってからはより楽しいと思いました。自分の勉強したことが成果に反映されるので、楽しさ倍増です。特に社会人になると、ちょっと勉強すれば職場の小さなコミュニティーのとある分野の専門家になれます。

 

少し意識が高いことを言えば、知は力なりを理解したということでしょうか。もしくは下記のような感じでしょうか。

知識への投資は、常に最高の利息がついてくる。 --ベンジャミン・フランクリン

参照

 

世の中の高給取りな仕事の大半は知識労働なので、知識への投資は確かに利息がつきますね。

ただ、ふとした時に勉強のし過ぎは良くないな、なんて思います。別に機械学習から引用して「過学習になるから」なんてことは言いません。

私なりに考えてみると、下記の理由で勉強のし過ぎはよくないのだと思います。

 

1.勉強にのめりこみすぎると他のことに時間を使えないので、もっと楽しいことへの機会損失になる

最初に挙げた動画でも言及していますが、勉強に時間を使いすぎてほかの楽しいことが出来なくなります。

勉強というのは割と時間がかかります。要領よくやれるひとは良いのかもしれませんが、そうじゃない人は時間を取られすぎます。

時間を取られすぎたらその分旅行や飲み会に行けなくなってしまいます。なんかそれってもったいない気がします。

勉強が好きな人は何かを探求するのが好きなので、それはそれでいいのかもしれませんが、時間をかけすぎることに何も感じなくなると「テストに向けて要領よくちゃっちゃと片づけてしまおう」という考えが損なわれてしまいます。

 

2.「ダサい」「コミュ障なのかな?」「そこまでしないと理解できないのww?」というネガティブな印象を与える

勉強が好きというのは世間的には良い印象を与えないような気がします。就職面接で「勉強ばっかりやっていました」というと「え、友達と遊ばなかったのかな? チームメンバーとうまくやっていけるのかな」という誤解を生みそうです。

もちろん面接官によっては「勉強ばっかりやっていました」というコメントに好印象を持つ場合もありますが、大体の人は否定的に思う気がします。

 

3.柔軟な発想を損なう

過学習云々ではありませんが、知りすぎると柔軟な発想を失いがちです。

 

4.承認欲求を満たすことが目的になってしまう

勉強が出来て人から褒められると多少はいい気分になりますが、勉強して承認欲求を満たすというサイクルを繰り返すと、不器用な生き方を助長することになるのではないでしょうか。

特に社会人になると知識が細分化されるので、会社の中のある部署ある課ある係という風に限定してくと、誰でもある分野の専門家だったりします。専門家になるともてはやされるので、承認欲求が満たせます。なので、だんだんと手っ取り早く承認欲求をみたそうというのが目的になりそうに思えます。

 

結局目的もなくだらだら勉強するのがよくない

知識を使う立場になると、学校のテストとは違って出題範囲などはありません。延々と勉強をする必要があるといえばその通りです。ゴールもないので目的を見失いがちです。休日に「一日3時間まで」などと決めてその範囲で頑張るのが健全なのだと思います。もちろんノッてきたら延長すれば良いと思います。

 

勉強は手段であって、目的にはならないと思います。勉強が趣味なら話は別ですが。

最後に断っておくと、勉強することを否定するわけではありません。勉強が好きならすればいいのだと思います。

 

おまけ。最近の受験はよく遊びよく学ぶことなのだとか。完全にスイッチを切らないことは社会人になっても大切だと思います。

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